かつて回向院境内には、観音堂や鎮守堂、太師堂などが建立され、数多くの尊像が安置されていましたが、関東大震災をはじめとした震災等により木彫の諸尊像はことごとく焼失し、石仏、銅仏等の諸尊像のみが残っています。現存のもののうちその一部を紹介させて頂きます。

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本尊阿弥陀如来

回向院の御本尊阿弥陀如来は、かつては本堂を背にして露天に安置されていた、いわゆる濡仏さまでした。

通称「釜六」(釜屋六右衛門)の作で、宝永二年(1705)に安置され、身の丈六尺五寸五部、蓮座三尺四寸五分もある大きな銅作りの坐像でその慈悲に満ちたふくよかなお顔に特徴があります。また、都有形文化財にも指定されています。

本尊阿弥陀如来

水子塚

陽の目をみずに葬られた水子の霊を供養するため寛政五年(1793)、時の老中松平定信の命によって造立されたもので、水子供養の発祥とされています。

江戸市民に知られていたこの矩形の板石の塔は、正面に小作りながら端正なお顔の地蔵菩薩坐像が浮彫りされ、その下に「水子塚」という大字が刻まれています。

水子塚

塩地蔵

当院と庶民信仰の関わりを称す像として左の地蔵菩薩があります。右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。

腐食がひどく年代など判明しませんが古いもので、「東都歳時記」所載の江戸東方四十八ヶ所地蔵尊参りには、その四十二番目として数えられています。

塩地蔵

千体地蔵尊

ご本尊の背面にある千体地蔵尊は、ご先祖の供養や家運や社運の隆昌・繁栄を祈願する人々によって奉安されたもので、後光さながらにご本尊を守護するさまは、まさに荘厳そのものといっても過言ではありません。

関東大震災により焼失してしまった尊像で増上寺の黒本尊と同木といわれ、恵心僧都の作と伝えられた「備中千体阿弥陀如来像」をその由縁としております。

千体地蔵尊

力塚と回向院相撲

日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。

やがて天保四年(1833)より当院は春秋二回の興行の定場所となり、明治四十二年の旧両国国技館が完成するまでの七十六年間、「回向院相撲の時代」が続いたのです。

力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と当院とのつながりを示す象徴になっています。

力塚と回向院相撲

馬頭観世音菩薩像

回向院の開創間もない頃、将軍家綱公の愛馬が死亡し上意によってその骸を当院に葬ることになりました。その供養をする為、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻し安置した馬頭観世音菩薩像は、享保年中(1716~35)の頃から「江戸三十三観音」に数えられており、「江戸砂子拾遺」によると、回向院はその二十六番札所と記されています。

当院の馬頭観世音菩薩に祈願をこめると、当時最も恐れられた瘧疾(熱病)や疱瘡(天然痘)にかからぬといわれ、時代が下るにつれて諸病平癒の霊験顕かな観音様として、人々の厚い信仰を集めました。

幾多の災難にあい当時のものは焼失してしまいましたが、現在も昭和新撰「江戸三十三所観音参り」での第四番札所として今も多くの巡拝者で賑わっています。

馬頭観世音菩薩像

一言観音像

一言観音は、そもそも南都(奈良)唐招提寺の像と同じ木で彫られたもので恵心僧都源信作と伝えられ、また「近世江戸三十三観音参り」の二十七番札所(「江戸砂子」)として馬頭観音と共に庶民の信仰を集めていました。

回向院二世信誉上人の時に楼上に安置されましたが、その後元禄十六年(1703)10月に四世観誉上人の夢枕にこの観音様が御立ちになって他所へ遷すべしと告げられたため、観誉上人はこの聖観音像を墓所へ遷すことにしました。ちょうどその年11月に大地震及び火災により当院は倒壊・類焼してしまうのですが、この移転により聖観音像は倒壊を免れました。そのことが知れ渡り信仰を集めるようになるとともに、その御前で一言願をかけると願い事が成就するという霊験が慕われ、いつしか一言観音と呼ばれるようになりました。

一言観音像
関連施設

鼠小僧次郎吉の墓

時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。

長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。

鼠小僧次郎吉の墓

関東大震災供養塔

東京が一朝にして焼土と化した大正12年の関東大震災において、当時の住職であった第21世浄厳師は、役僧を引き連れ焼野原を歩き、亡骸を見つけては巡回回向し、また被服廠跡や隅田堤で日夜読経念仏したと伝えられます。

大正14年に東京市は遺族に対して遺骨の引き取り方を公告。各区にわたる死者は分骨して回向院にも納骨されました。

関東大震災供養塔